2/18 「パンではなく言葉」 三浦 遙 聖句:マタイ4:1-11
先週の水曜日から受難節(レント)の期間に入りました。この受難節の期間はイエス・キリストが十字架に掛けられるまでの苦しみの道を思い起こすものです。それは、十字架の死という肉体の痛みだけではなく、この世の全ての苦しみを一つ一つ携えていくような険しい道です。今回の箇所はその苦しみの一部を描く「誘惑」の物語です。
イエスは宣教を始める前に、荒れ野にて悪魔からの誘惑を受けられました。わざわざその誘惑を受けられるのも、人々が抱く苦しみをイエス自らが引き受けられるためです。ひとえに誘惑と言っても様々な誘惑の姿が示されています。最初は「食欲」。イエスは40日間にわたって食事を取らないことで空腹を覚えます。この空腹はわたし達にとっても難しい誘惑です。お腹を満たしたいという欲求は人間の生存本能ですから当然ですが、この時に悪魔が「石をパンに変えたらどうだ」と誘惑していきます。神の子であるイエスならそれが可能であるのだと。しかしイエスはその誘惑に対して「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る言葉で生きる」と誘惑を退けていました。
他にも、神からの愛を試すような「承認欲」や、全てを欲する「支配欲」など、様々な誘惑を受けるイエスですが、それら全てを聖書の言葉によって退けていきます。食欲や承認欲、支配欲はわたし達にとっても日々感じるものばかりです。どれも、日々可能な範囲で満たしているものでもあります。しかし、これらの欲を抑えられない時、人々は争い、暴力的になってしまう。神の子であるイエスですらも、これらの欲と向き合うのです。しかし、そんな時イエスを支えたのが神の言葉でした。それはイエスだから乗り越えられたという訳ではなく、わたし達も同じように神の言葉に支えられることで、これらの欲を乗り越えることができるということです。
パンというその場しのぎのものではなく、言葉という長くその人を支える力。目先の欲望のために自身の力を用いるのではなく、神様の示す愛ある交わりのために、より多くの人と分かち合うためにこそ、個々人の力や働きがあるのです。今回の箇所ではイエスが神の子だから誘惑を乗り越えられたというわけではなく、わたし達と同じように誘惑に苦しみながらも向き合いつつ、それでも神さまに御心に従った姿があります。わたし達もイエスに習って、目先のパンではなく、主の言葉にこそ拠り頼み、分かち合いのために業を成して行くことができますように。
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