1/14 「来れば分かる」  三浦 遙   聖句:ヨハネ1:35-51

 イエス・キリストの宣教旅行についてきた12の弟子達。各々が個性のある弟子達ですが、この弟子達は福音書によって弟子入りの経緯が異なっています。マタイ、マルコ、ルカの福音書ではイエスが従うように声をかけますが、今回のヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの声掛けと、弟子達自身がイエスについて行くことを選んでいく姿が描かれていきます。

 シモンの弟アンデレともう1人は元々洗礼者ヨハネに従っていましたが、後にイエスに従います。しかしイエスが2人に「何を求めているのか」と問います。この問いに2人は戸惑ったかもしれませんが、2人は「ラビは何処に泊まるか」と問い返しています。それは「何を求めるか」に対して「一緒にいたい」と応えるのです。その後、シモンや数名の弟子が加わりますが、フィリポとナタナエルの弟子入りは印象的なものでした。

 フィリポはイエスに声をかけられますが、ナタナエルはイエスと出会った際に「まことのイスラエル人」と称されています。この言葉に対してナタナエルは「わたしを知っているのか」と問うと、「あなたがイチジクの木の下に居たのを見た」とイエスは答えていました。これには諸説ありますが、どのような説であろうと重要なのは、ナタナエルの心と信仰を出会う前からイエスが見つめておられたということです。言い換えれば、自身の知らぬ間に神の愛ある眼差しに捉えられていたということでもあります。そのことに気がついたナタナエルが「この人は神の子」と信仰を告白するのです。

 わたし達は他者の心を除くことは出来ないし、自分の心を誰かに開示することも難しいものです。そこには伝わらないことの「もどかしさ」があります。伝わってほしい思いと知られたくない想い。そんなもどかしさの中でも、実は自分の気が付かないところでわたし達は隣人達によって見守られ、愛のある眼差しによって支えられていることを思い起こしていきたいと願います。遠くから、またすぐ隣で、あなたの努力や優しさを感じ、そのことに励まされている人がいる。何より、神様は誰にも見せないあなたの心をよく知っておられ、見守り、祝福してくださる方です。イエスはそんな神の愛が、イエスに従い来れば分かると示し、弟子達やわたし達一人ひとりを招くのです。そのような、優しい眼差しと支えと祈りによって日々を歩むわたし達も、同じように隣人を見つめ、支え合っていくことができればと願います。孤独ではなく共に生きる教会として。

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