12/17 「拒絶されても」  三浦 遙   聖句:ルカ4:16-30

 イエス・キリストの生涯は宣教や教え、奇跡の業など、偉大さを纏ったものとしての印象が強くありますが、その裏にあるのは「拒絶」という大きな痛みであるといえます。今回の聖書の箇所において、イエスは故郷であるナザレの会堂にて教えを語っていますが、周囲の人々は幼い頃のイエスを知っているからこそ、その「救い主」としてのイエスを受け入れられませんでした。そのことは、イエスも重々承知の上であったことも描かれていますが、物語の中では思い込みや過去の関わりの中で変化を嫌い受け入れられず「拒絶」する人々の姿が克明に描かれています。

 新約の物語において、イエスは多くの拒絶を経験します。今回の箇所でのナザレの人々だけでなく、当時の権力者達や群衆達、「救い主」としても「イエス」としても疎まれ、否定されていく。果てには十字架に架けられる時、イエスはこの世の全てから拒絶されて死に至るのです。拒絶とは、死に至るほどの苦しみであり、命の否定でもあるのです。しかし、イエスはそんな自分自身を拒絶する人々にさえ「救い」の言葉を掛け続け、神に祈り続けるのです。

 アドベントのこの時、この「拒絶」の姿がクリスマスの物語においても描かれていることを思い起こします。マリアとヨセフがベツレヘムにたどり着いた時、全ての宿屋がマリア達、お腹の中にいるイエスを拒絶し、受け入れない様子があります。救い主を求めず、神すらも求めない、神から遠ざかっていく人々の姿です。それは、家畜小屋でイエスが生まれるという状況にも克明に表れています。それでも、イエスは生まれた。生まれた後も拒絶されつつ、それでも宣教を辞めなかった。そこに、神様の、イエス・キリストの愛があるのです。

 わたし達も様々な変化の中で、出会いの中で、時に拒絶してしまう時があります。同じく、拒絶されてしまうことも多くあります。拒絶することはとても簡単で、拒絶されることはとても恐ろしいことです。アドベントに思い起こしていきたいのは、イエスが拒絶されてもなお、人々を想って祈り、向き合っていった「愛」によって押し出され、わたし達も拒絶ではなく受け入れ合い、愛し合うことができるということです。その先に、豊かな交わりと平和があると願い、何よりそれらがイエスや神様の御心に適うと信じて歩んでいくことができればと願います。

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