12/10 「全てを背負って」  三浦 遙   聖句:マタイ1:1-17

 新約聖書の一番最初にある、マタイ福音書の1章1節〜の「イエスの系図」。多くの人がスルーしてしまうような退屈な内容ですが、その中には大切なメッセージが込められています。

 マタイは、系図の中で14代と区切りながら説明していますが、それらはその代において大きな時代の節目があるということが示されています。また、ルカによる福音書においても同様に系譜が記されていますが、それと異なり重要なのは、マタイでのイエスの系図に登場する4名の女性の存在です。当時の男性主権的文化の中で、家系図に女性が記されていることも珍しい事ですが、それ以上に、この女性たちはユダヤ人ですらないというのが驚きです。3節のタマル、5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻。タマルはアラム人、ラハブはカナン人、ルツはモアブ人で、ウリヤの妻はヘト人であったとされています。女性で、しかもユダヤ人ではない人物がイエスの家系図に記される。別にアブラハムの妻サラでも、他にも有名なユダヤ人女性がいたでしょうに、あえてユダヤ人ではない異邦人、他地方の人物が記されているのにも大きな意味があります。

 マタイは、旧約からイエスまでの繋がりの中で、アブラハムからダビデまで、そしてダビデからバビロン捕囚までと、人間の強欲さ、人間の罪の歴史を意識していました。それらが、イエス・キリストに繋がることで、その罪が許されていく、人間の神とのある意味「因縁の歴史」が、イエスによって終わるのだという事を強調したいわけです。人間と神との関係がイエスによって贖われて、回復し、救いに導かれていく。その中には、女性はもちろん、カナン人や、モアブ人、アラム人、ヘト人などのユダヤ人以外の異邦人もその救いに繋がっている。イエス・キリストに繋がっているということを伝えたいのだと思います。

 当時の人権意識や、差別意識がどの程度のものだったかは分かりませんが、今のわたし達にも大きく関わっていくものです。イエスが生まれたのは、わたし達人間の罪を贖い、その身に引き受けてくださるためと言われていますが、その実態を、その意味を、この系図をもって示そうとするマタイ福音書。その文章が新約聖書の一番最初に位置しているというのには、ただの間違いであったとしても、大変意味のあるものだなと思わされます。唯々、目を通すだけの、人物名が羅列された、系図の中に、旧約から新約への繋がりと、それら全てを背負って歩まれるイエスという大きなメッセージが込められているのです。

0コメント

  • 1000 / 1000