11/26 「収穫と施し」  三浦 遙   聖句:2コリ9:6-15

 収穫感謝礼拝は、それぞれが収穫を持ち寄りつつ、その収穫が与えられた物であるということや収穫に至るまでの全てに感謝すること、何よりその全てを支えてくださった神様に感謝を捧げることを思い起こす日となります。今回の箇所においては、コリントの人々が忘れていた「捧げる心」についての教えが記されている箇所です。

 冒頭の6節において「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」とあります。パウロは、何かを得るには、まず捧げていくこと、それらを手放し委ねていくことが必要であると示しています。なかなか、難しい例えにも感じられるものですが、確かに、言い換えれば種を蒔くということはそれらを地面に捨てていると言えるかもしれませんし、それらが確実に手元に返ってくる訳でもありませんから、信じて待つことが求められると言えます。

 しかし、それらは投げやりに行うことでもないとパウロはいいます。パウロは、自身が与えられる側であることに固執し満足するのではなく、与え、捧げることによってこそ神様への賛美と感謝に繋がること、その姿を見てより多くの人々への宣教となると伝えています。もっと言えば、収穫をすることだけでなく、それらを誰かと分かち合うこと、施しによってこそ、喜びが与えられるということです。種を蒔き、水をやり、成長を見守り、一粒の種から10倍、100倍もの収穫を得た後、それらをより多くの人と分かち合うまでが収穫であり、大切なことであるのだと。

 当時の対立と傲慢さを抱いていたコリントの教会にとって、またパウロを適していた人々にとってこれらの言葉は大きく響くものでした。パウロの語る言葉によって、コリンとの教会は神への信仰に立ち返っていくのです。教会が建てられた時、まだまだ小さく、まとまりがなかったけれども、それでも、自分たち自身が奉仕をし、種を蒔いてきたこと、何より神様の豊かな守りと導きによって喜びの収穫を得てきたことを思い起こすのです。いつの間にか、目に見えるものに固執し、得た収穫を独り占めするかのように囲い込んでいた自分たちの歩みに気が付かされていく。収穫とは、感謝を持って受け止め、喜びを持って施していくものであることを思い起こしていくのです。そんな言葉では言い尽くせない贈り物について感謝するのが、この収穫感謝であるのです。

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