10/8 「もしも私が苦しまなかったら」 三浦 遙 聖句:2コリ12:1-10
聖書の物語においても、わたし達の日々の生活の中でも、「清く正しく生きているのに、なぜこんな苦しみが与えられるのか」という疑問は常に晴れずに、わたし達の心に不安を与えています。それは、「もしかしたらわたしが悪いのではないか。わたしが原因で苦しいのではないか」という不安です。そのような因果応報的な思想は日本だけでなく長い歴史を持つ聖書の物語においても登場人物達の不安の一つでした。
しかし、そうではないとパウロは示しています。パウロは「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません。」と宣言しています。パウロ自身、学歴や地位、財力共に不足のない人物で、それらを誇りに思っていたが、それらが打ち砕かれ、キリストを信じ、熱心に宣教をしてきました。その宣教の中でもパウロは再三打ち砕かれたのです。しかし、その苦しみに主が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と示されたのでした。
この言葉を聞くとき、ある詩を思い出します。瞬きの詩人として知られる水野源三さん。彼の詩に「もしもわたしが苦しまなかったら」というものがあります。「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現れなかった」というものです。ご自身が体を動かすことも、声を発することも出来ない中、その苦しみがあったからこそ、神様の愛に触れることが出来たと示すのです。
わたし達も、日々の歩みの中で様々な苦しみや棘が与えられます。愕然とする想いになる時もありますが、覚えておいていただきたいのは、その苦しみを知るあなただからこそ出来ることや見ることが出来るものがある。痛みを知り、苦悩を知り、弱さを知るあなただからこそ、同じような痛みに寄り添うことが出来るのです。それは主イエスが十字架で、そこに至るまでに受けられた痛み。イエスがわたし達一人ひとりに寄り添うために受けられた痛みと同じである。弱さを知り、苦悩を知るわたし達だからこそ、同じように苦しめられている方々のために祈り、手を差し伸べていくことが出来るのです。
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