10/1 「特権を持つ私」 三浦 遙 聖句:ヤコブ2:1-10
「アンコンシャス・バイアス」という言葉をご存知でしょうか。いわゆる「無意識の偏見」という意味の言葉ですが、よく例に出されるのは「男の子は青色系、女の子はピンク系が好き」とか「ブラジルの人はサッカーが上手い」など無意識にその人の内面を決めつけてしまう事。そういった無意識の偏見をわたし達は持っているのです。しかし、そのような偏見に小さく、また深く傷つけられる方々もおられます。今回の聖書の箇所で「人を分け隔てしない」と示されていました。いつの時代も、身なりや言語、様々な差異を見つけては、良い悪いを勝手に判断し、分け隔て以上に差別が起こってきました。
今回の手紙においてはそのような分け隔ては神のみ心ではないと語ります。神は世の貧しい人々、様々な重荷を負わされている人々を選び、信仰に富ませ、平安をお与えになる約束をされたのだと。著者であるヤコブは「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があれば、全てが有罪」と示します。この言葉は大変厳しいものです。この手紙において著者であるヤコブは、見た目において差別をすることを注意しただけではなく、人を分け隔てすること自体がイエスの教えや神のみ心に反するものであると示しています。もっと言えば、「隣人を自分の様に愛する」ということについて問いかけているのです。
そんな中で思い起こしていただきたいのは、人を分け隔てすることや差別するということを、反対するわたし達であっても、その実、差別や分け隔てをしてしまい、その現状を静観しているということ。しかし、世の中には、わたし達のすぐ隣には、わたし達が当たり前に持っている感覚によって傷つけられ、否定され、孤独にさせられている方々がいる。わたし達が自由にできることを、差別を受ける方々は自由にできない現状があるのです。ヤコブはたった一つの律法を犯したなら全てにおいて有罪であると大変厳しい言葉を投げかけていますが、その言葉には様々な差別によって命を削られてきた人々の痛みに応えようとする思いが込められているのではないかと思わされます。
差別を受けるのではなくする側に、それらを見過ごし助長するという特権を持ち続けているわたし。そんな姿が今回の聖書の箇所において示されている様に思うのです。しかし、それだけではない。今のわたしも、この鳳教会も、確かに全ての人に開かれ、受け入れられる場所になりきることができていなくとも、わたし達が願うのは、「隣人を自分の様に愛する」と伝えたイエスを信じ、その教えを命を通して示されたイエスに倣って、分け隔てではなく、差別ではなく、手を取り合い、平等に生きる平和を求めていくことが出来ればと願います。
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