9/17 「良いものを身につけて」 三浦 遙 聖句:コロ3:12-17
学校の授業などでキリスト教のお話をする時、いつも思い浮かべながら語るのは、神様の愛の特別さについてです。それは、人は愛された分だけ隣人を愛することができるという言葉とセットとして示されます。わたしの高校時代、人はコップのようなものだと言われました。そのコップに注がれた愛の分だけ、誰かに愛を注ぐことができると。わたし達キリスト者は自身の器に神様の愛をたっぷり受け、その愛を隣人に分け与える事ができるし、これまで、多くの人から神様の愛を注いでもらってきたのです。今回の箇所においても、12節に「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」と示されていました。
マザー•テレサの言葉で「いちばんひどい病気」として「多くの人は病んでいます。自分が全く愛されていない、関心を持ってもらえない、いなくていい人間なのだと…。人間にとっていちばんひどい病気はだれからも必要とされていないと感じることです」というものがあります。しかし、キリストの愛を受けるわたし達は、今回の箇所の言葉の通りに生きることを望みます。キリストの愛に応えるように、愛を身につけて歩む。責めるべき事があっても赦し合うのです。毎週の礼拝を通して、日々の生活を通してキリストの言葉によって新たにされるわたし達は、キリストの言葉を内に留め、知恵を尽くして互いに教え合い、諭し合い、御言葉により感謝して主を讃美していく。
とても理想的で非現実的な姿に見えるかもしれませんが、難しく、時に躓いてしまう聖書の教えの根幹にあるのはこの「何を話すにせよ、行うにせよ、全てを主イエスの名によって行い、感謝する」ことに尽きるのかもしれません。この御言葉と毎週の礼拝で示される教え、それらを通して、わたし達は良いものを身につけ、深く限りの無いキリストの愛に応え、その受け取った無償の愛を自分の愛する誰かに、名前も顔も知らない隣人に分け合っていく事が出来ればと願います。それは、「愛は全てを完成させる絆」という言葉にあるように、より豊かに、鳳教会としても、神の愛のうちに豊かな交わりを大きくしてくださると信じて、祈りあって歩んでいく事が出来ますように。
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