9/10 「誇れるもの」  三浦 遙   聖句:ガラ6:14-18

 日本語というものは難しいと日々感じることが多くあります。言葉一つとっても、思ったように伝わらないことがある。それが良い意味ではなく、悪い意味で伝わってしまうことは悲しいことです。それはどのような言葉も同様で、聞き手や話し手の雰囲気、思い、気分、状況によって如何様にも意味が変わってしまうものです。もっと言えば、聖書の言葉も読む私たち、一人ひとりに全く違うメッセージが示されることがあるのです。ですが、そのように読む人それぞれによって異なるメッセージが与えられるのは、いい意味で聖書の魅力でもあるのだと思わされます。

 今回の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙の結びの言葉、巻末の言葉として記されたものです。使徒パウロによって記された手紙で、ガラテヤの教会の人々に「律法と福音」についてを伝えている手紙とされています。今回の箇所の冒頭の「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものはない。」という言葉。この誇りという言葉は、中々に難しい言葉だと思わされます。誇りという言葉は英語にすると「プライド」という言葉になりますが逆に「プライド」という言葉を和訳すると「自慢・自惚れ、高慢、思い上がり」という言葉にも訳されるものです。同じ意味の言葉であっても、誇りという言葉の持つニュアンスとプライドとでは、完全に一致するわけではありません。では、誇りとは一体なんでしょうか。そこには、自惚れや高慢とは違った、「信念」や「軸」のような強固さが感じられます。プライドも自分を支えるものであるとは思いますが、プライドが「見栄や虚勢」という脆弱なものであるのとは違い、誇りとは揺るがないものであると言われます。

 今回の箇所でパウロは当時の人々、特に律法を盲信するプライドだけの人々に対し、そうではなくイエス・キリストを自分自身の「軸」としなさいと伝えたかったのだと思わされます。自分自身を守るための見栄や虚勢としてプライドではなく、本当の意味で、イエスの十字架を自分自身の軸に置くこと。わたし達キリスト者は、そんな頼れるサポーターがいて、しっかりと立つことができるのです。そんな力強い支えがあってこそ、誰かの支えになることができる。地の塩、世の光という言葉にあるように、毎週の礼拝を通して示される御言葉に支えられながら、世の人々の、自分の隣人の、愛する誰かの支えとなることができますように。

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