9/3 「わたし達は主のもの」 三浦 遙 聖句:ロマ14:1-9
わたし達は信仰を持つ共同体です。しかし、今回の聖書の箇所において、「信仰の弱い」という言葉が記されていました。果たして、信仰に「強い、弱い」というものがあるのでしょうか。言葉こそ「信仰の弱い」と記されていますが、信仰とは信じるか信じないか、持つか持たないかのみであり、それは決して信仰の量や質を比べるための言葉ではありません。今回のこのローマの信徒への手紙は、使徒パウロによって記されたものです。そして、この手紙にてキリストの福音と自身がなぜ宣教をしているのか、教会とは何かという大切なメッセージを伝えています。今回の箇所では、「教会」という共同体において「受け入れること」の大切さが示されています。
冒頭の「信仰の弱い人々を受け入れなさい。」という言葉はまさにその中心です。ここでの信仰の「弱さ」というのは言い換えれば信仰以外の頑なさの強さに比例するものです。というのも、のちの言葉にあるようにこの信仰の弱い人々は野菜のみを食べていたとあります。それは、当時市場に出回っていた肉というのが、他の宗教行事に用いられた肉であったからです。この信仰の弱い人々は、他の宗教で用いられた肉を食べることは偶像崇拝になると思っていたので、肉を食べなかった。わたし達の日本文化で例えるなら、友引の日に結婚式をするのは良くて、逆に葬式はダメということを、信じていなくてもなんとなくその通りにしてしまう。縁起の悪いことはしない方がいいのではないか、と考えてしまうのに似ています。キリストの福音を信じる時、何かこだわりを捨てきれず、迷ってしまうこと。そのことをパウロは「信仰の弱い」と表現しているのです。
しかし、そんな信仰生活の中で迷う人々を追い出していくのではなく「受け入れる」ようにとパウロは語ります。それは、イエス・キリストがそのように示され、その命を捧げられたからでもあります。わたし達の信仰生活や日々の歩みにおいて、「そんなこと」と思うようなことでも躓く人もいれば、周りの躓きやペースに合わせず突き進んでいく人もいます。誰かと共に生きる事というのはとても難しいことであるのだと実感します。それでも、それらの違いを切り捨てていくのではなく、豊かさとして受け入れていくことが出来れば、「それもいいね」と認め合っていくことが出来れば、強さも弱さも、こだわりさえも、良い賜物として神様が用いてくださる。そのような御言葉を胸に刻みつつ、種の民としての教会、共同体、また家族として歩んでいくことでが出来ればと願います。
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