8/13 「受け入れる者」  三浦 遙   聖句:1テサ1:2-10

 先週の平和聖日礼拝の中で、様々な性のあり方についてお話をしました。しかし、中にはそれらの考えやあり方を否定する人々も居られるとも。わたし達は日々の生活の中で、様々な出会いがありますが、そのような出会いの殆どは、自分にとって異質なものとして拒絶してしまうことが多いのではと思います。

 今回の箇所の3節の言葉に「あなた方が信仰によって働き、愛のために労苦し、わたし達の主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを心に留めています」とありました。キリスト教らしい言葉が飛び交う中、これらの言葉にある「信仰、希望、愛」というものは、パウロにとって重要なことで、のちの手紙においても他の教会に向けて示しているものです。しかし、「信仰、愛、希望」だけではなく、それぞれには「働き、労苦、忍耐」という言葉も示されています。主の言葉と、それに伴う苦しみや労力、それらをこのテサロニケの教会はしっかりと受け止め、成していることを、パウロは喜びと感謝を持って伝えているのです。

 6節以降にあるように、このテサロニケの教会の人々は、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、主に倣う者となり、すべての信者の模範となるに至った」のでした。このテサロニケの人々の働きや教会の歩みが、周囲の人々に良い影響を与えているということ。それは、ひとえに、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びを持って、御言葉を受け入れた」ことに注目されています。神から与えられるものが、様々な艱難を与えてきたけれども、このテサロニケの教会はそれらの苦しみの中であっても、聖霊による喜びをもって、御言葉を受け入れている。どれだけ辛い状況であっても、主の御言葉によって立たされ、力強く歩み、その姿を通して多くの人々を励ましてきたのでした。

 今のわたし達にとっても、様々な苦難がある中で、それらを受け入れることが難しい時があります。しかし、受け入れることはそれらを認めるということでもあります。認めることはそれが正しいとか、間違っているとかの基準ではなく、それそのものの価値に重きを置くこと。それはまさに、イエス・キリストが生涯を通して示してこられたことでもあります。自分の知らないもの、自分の世界とは違うものが世の中には沢山ある。見知ったものだと思っていても、実は全く知らない側面がある。当たり前でないことを否定するのではなく、自分にとって有り難い存在を認めていくことで、平和の輪が広がっていくのだと思わされます。どうか、ただ物事を遠ざけていくのではなく、和解し、調和を持ち、認め合い、受け入れあっていく、そのような平和な歩みを、わたし達自身が成していくことができますように。

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