7/16 「裁きではなく」 三浦 遙 聖句:ガラ6:1-10
ここ数年、芸能人の自死が多く報告されています。新型コロナウイルスの長きにわたる不安など、精神に影響するものも多くありますが、それだけではなく、「有名税」と銘打って、出る釘を打つような誹謗中傷を長く、そして多く受けてきた背景があるのだと聞きます。インターネットが普及し、ネット上での発言が多くなり、広く交流を持てることは良いことですが、匿名性の高さや無責任な発言など、課題は多くあります。そこには、本来あるべき人間の尊厳が失われていく姿がありますが、その本来あるべき交わりの姿が聖書に記されています。
ガラテヤの信徒への手紙は使徒パウロによって記されたもので、ガラテヤの信徒に向けた言葉が記されています。様々な課題に対し、叱咤激励の言葉が続く中、最後の言葉には、「支え合っていくこと」が語られています。パウロが伝えたのは「正しい道に立ち返らせなさい。誘惑に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。行いを顧なさい。分かち合いなさい。たゆまず善を行いなさい」ということでした。いうは易しとは思いますが、教会という共同体の中で、様々な課題や対立がある中、その信徒らに最も伝えたい大切なこととして、パウロはこの言葉を残しています。それは、これらのことを行えれば、これまでの課題もこれからの困難も乗り越えることができるという、手紙の最後であり、パウロがガラテヤの人々に向けて投げかけた最後の言葉で、大切な想いが込められています。
わたし達はどうでしょうか。誰かが間違えれば「自己責任だ」と言い、誘惑に負け、重荷を押し付け合い、自身を棚に上げては、誰かを裁いていく。そんな弱さがわたし達、何より日本や世界に蔓延しているのではないでしょうか。そのことで、追い詰められて行く人々が多くいます。そうではなく、パウロが教会に向けて語ったこと、裁くのではなく許し支え合って行くことが、今の時代も変わらず大切なのです。それは、その許しと支え合いをイエスご自身が貫き通してこられたからでもあります。十字架上で苦しみながら、それでも自身を虐げ嘲笑う人々を許されたイエス。パウロの言葉や、イエスがなされた裁きではなく許し合い支え合うことを、今のわたし達は出来るでしょうか。世間一般の常識とは異なる、キリスト教会特有の価値観は、確かに世間の言う「責任」や「損得」とは合わない部分があるかもしれませんが、イエスが示され、パウロが伝えたこの想いを、今のわたし達もしっかりと受け止め、見習って行くことができればと願います。
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