7/2 「垂れ幕を裂いて」  三浦 遙   聖句:使徒11:1-18 

 わたしにとってキリスト教の良いところは「一人一人を分け隔てなく愛される神」というメッセージが語られていることです。どれだけ生活や社会の中で「不要だ」と心無い言葉を投げかけられても、キリスト教の神様はどんな人でも賜物を与え、恵みを示し、愛をもって守り導いてくださる。しかし、聖書の物語には、今の社会と同様に差別や分け隔てを感じさせる様子が描かれています。そんな中、復活のイエスに押し出され宣教を行っていたペトロの物語において、分け隔ての無い神の恵みを示す言葉が示されています。

 宣教を行うペトロの下に、割礼を受けている人々、いわゆるユダヤ教の文化を尊重する人々が「異邦人と共に食事をしたこと」でペトロを非難しています。するとペトロは、自身の見た幻について話し出しました。幻の中では、様々な生き物が入った布のような入れ物が現れ、神がそれらを食べるように促します。しかしペトロはユダヤ教の教え、神の教えにおいて、穢れているそれらの生き物を食べられないと答えると、神は「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と言い、それらの生き物を天に上げられていったのでした。その後、カイサリアから来た人達を迎え入れた時、主の天使の導きの内に、聖霊が下り、そのカイサリアの3人の上にも聖霊が留まったのでした。これらのことを通して、これまで穢れているとか相応しくないと思っていた様々な分け隔てを神は全て取り払い、清め、同じ賜物を与えてくださることをペトロは伝えたのでした。

 この物語を読むとき、イエスの十字架の出来事を思い起こします。イエスが十字架上で息を引き取った時、神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けたと記されています。それは神殿にのみいた神が、神殿から出て、世界中の人々の祈りを聞く神となられたこと、また神殿の内と外という分け隔てをイエスが取り払ったことを意味すると言います。イエスの十字架の贖いによって一部の人にのみ示されてきた神の恵みが、全ての人に示されるようになった。「分け隔てなく愛される神」となられたことが示されているのです。

 このペトロの物語を通して、「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えた。」と喜び賛美した様子が描かれています。穢れや相応しさという分け隔てを越えて、愛してくださる神が居られるからこそ、「〇〇らしく」という型にはめられるのではなく、わたし達はわたしらしく生きることが出来る。その命を通して神殿の垂れ幕を裂き、深い恵みと愛を示してくださったイエスと神様に感謝しつつ、互いを認め合いながら歩んでいくことが出来ますように。 

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