6/25 「洗礼の導き」  三浦 遙   聖句:使徒8:26-38

  キリスト教の入信儀礼である洗礼は、使徒たちの福音宣教の中で多くの人々を招き、キリスト教共同体として建てられていくのに重要な意味を持っています。しかし、その洗礼は当時の人々にとって大きな課題をはらんでいました。ユダヤ教の入信儀礼は割礼と成人の義を終えている事など、いくつもの儀式があり、それらを行っていない人々とユダヤ教徒を厳しく分けて捉えていました。もっと言えば、イスラエル民族であるかどうかという出身についても重く捉えられていたのです。しかし、使徒たちは割礼や出身を問わず、「キリストを信じるか」という事のみに重きを置き、教えを語りつつ多くの人々に洗礼を授けていましたので、ユダヤ教的な思想と新しい思想との間で困惑していたと言われます。

 今回の箇所でエチオピアの高官に使徒であるフィリポが洗礼を授ける様子が描かれていました。このエチオピアの高官は名前の通り高い権威と権力を持つ人物で、ユダヤ教に精通している人物でした。ユダヤ教文化を知る人物という事で異邦人ではなかったし、外国の人という事で差別を受けているわけでもなかったとも言われます。今回の物語で注目されるのは、使徒であるフィリポがこの高官を洗礼に導いたというより、主の霊の働きかけが重要であるという事です。そもそも、この高官とフィリポを出会わせたのは主の霊でした。突然にフィリポを進ませ、洗礼を授けるための水場にも導いていく。洗礼という行いが、ただただ使徒たちの福音宣教によるものであるというだけでなく、その裏には目に見えない主なる神の働きかけが豊かに臨んでいるという事でもあります。また、エチオピアの高官がフィリポに「洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と問いかけています。「キリストを信じ、聖霊によって供えられたこの洗礼にこれ以上の何かが必要なのか」という問いに、フィリポは洗礼を授けることで応えるのでした。

 今のわたしたちにとっても、洗礼を受けることというのは「キリストを信じること」以外に必要なものはありません。もちろん、教会として共に歩んでいくことを望むものではありますが、洗礼の導きと、その後の信仰の歩みは何よりも主の霊によって、主の導きと守りによって導かれていくのです。そして今も、わたし達の歩みはその主の霊によって守られ導かれているし、今まさに洗礼へと導かれようとしている人々がいる。キリストを信じ、聖霊の導きに委ねつつ、神の福音が世界中に行き渡っていきますように、わたしたち一人一人、祈りと賛美をもってこれからも礼拝を守っていくことが出来ますようにと祈ります。 

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