6/18 「あのナザレの人」  三浦 遙   聖句:使徒4:5-14

  聖霊降臨節を歩むわたし達は、復活のイエスと聖霊とに押し出され、宣教に励む使徒たちの物語を共に分かち合っています。本日の箇所では、ペトロとヨハネが当時の権力者たちによって逮捕され、尋問されている様子が描かれています。ペトロとヨハネは、神殿にて復活のイエスの知らせを語り、足の不自由な人を癒していましたが、イエスの復活を宣べ伝えていることにいら立った祭司たち、サドカイ派に捕まってしまいます。ペンテコステからまだ日が浅い時期であっても、既に権力者たちが目を留めてしまうほどにキリスト者の群れが増えていたからです。

 しかし、次の日ペトロ達が問われたのは「何の権威で病人を癒すのか」という事でした。これはサドカイ派と律法学者(ファリサイ派)での思想の違いが示されています。サドカイ派は上流階級向けの宣教をし、復活などは信じていなかったが、ファリサイ派は一般階級向けに宣教し、復活なども教えていました。捕まった時はサドカイ派に「復活について」咎められ、議会では「癒しの権威」について咎められているのに対し、ペトロははっきりとその矛盾を捉えつつ、「イエスについて知っていただきたい」と大胆に福音を語り掛けるのでした。

 ペトロは、「家を建てる物の捨てた石が、隅の親石となる」という詩編の言葉を引用し、その場にいた議員たちを批判しつつ、あのナザレの人イエス・キリストによってのみ、救われると示しています。この「キリストのみ」という言葉は、他方で排他的な意味を感じさせる言葉です。他に救いはない、他の神は偽物、と多様な価値観を否定し、争いを起こしてきました。

 しかし思い起こしていきたいのは、これはペトロの信仰告白であるという事です。このペトロはイエスの一番弟子であると自負しつつも、裏切り、逃げ出してしまいました。この時のペトロは自分の信念や決意によって救われるという想いにおいてこれでもかというほど挫折を経験している。しかし、イエスが復活し、ペトロを赦し、宣教に送り出してくださった。ペトロにとって、「キリストのみ」というのは、他の神を否定する思いもあるでしょうが、何よりも自分の信念や決意、信仰によるものではなく、「あのナザレの人、イエス・キリスト」によってのみ救われるのだと信じているのです。

 わたし達も、自分自身の想いを抱いて歩んでいますが、その想いが打ち砕かれ、絶望を感じてしまうことがあるかもしれません。しかしペトロがそうであったように、自分の想い以上にわたし達を知り、愛してくださる「あのナザレの人、イエス・キリストに委ねて、信じて福音を宣べ伝えていくことが出来ればと願います。 

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