5/28 「聖霊よ降りて」 三浦 遙 聖句:使徒2:1-13
ペンテコステの出来事は、イエスが復活され、40日間にわたり弟子たちと共にあって聖書の教えを語り、天に昇られた10日後に起こったと言われています。イエスが復活されて50日目の出来事であり、ギリシア語で50日目を意味するペンテコステと呼ばれています。そのペンテコステでは、弟子たちが一堂に集まっている時、激しい風が吹いて来るような音と共に、炎のような舌が弟子たちの上にとどまり、霊に満たされ、弟子たちは様々な国の言葉で語りだし、周囲の人々を驚かせるのでした。この聖霊は度々「風」として例えられています。目に見えないけれども、確かにそこにあるもの。そして炎は、神の栄光を示すのと同時に、悪を焼き尽くす厳しさをも表しています。何より、炎のような「舌」とあるように、この聖なる霊は、この弟子たちを語らせる者として遣わしてくという事が示されているのです。聖霊に満たされた弟子たちは、霊が語らせるままに話し出したとある通りです。
しかし、注目したいのはこの霊によって語られた言葉を聞いてもなお、周囲の人々は理解を示さず、不思議がっていたという部分です。様々な出身や価値観がある中で、同じ福音を聞いても、それだけでは信仰に至らなかった。しかし、その後のペトロの言葉を聞いて、人々はイエスを信じ、洗礼を受けたのだと聖書は記しています。言語の壁を超えるだけでは意味がない。そうではなく、その後の「イエスへの信仰」によってこそ、周囲の人々の心は動かされていったのでした。
鳳教会の66年の歩み。その全てを知るわけではありませんが、その中でこのペンテコステのような見るからに霊に満たされるようなことはおそらくなかったかもしれません。しかし、それが重要なのではなく、この鳳教会が霊によって守られ、押し出されつつも、何より自分たちの信仰を、「イエスこそ救い主である」という想いを、語り続けてきたからこそ、ここまで歩んでこれらという事です。目に見えない、捉えることのできない霊の働きに感謝しつつ、その騒音にも負けないくらい、賑やかに歩んできたであろう鳳教会のこれまでの歩みを思い起こしつつ、今のわたし達も、霊に押し出されて、信仰の先達者たちに押し出されながら、これからも「イエスこそが救い主である」という信仰を、鳳教会らしく伝えていくことが出来ればと願います。
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