5/21 「それでも信じて」 三浦 遙 聖句:マタイ28:16-20
信仰をもって生きるということは、どのようなことでしょうか。鳳教会の信仰の先達者たちは、様々な過酷な状況の中であっても、鳳教会を中心に祈りを合わせて歩んできました。復活したイエスは、弟子たちに様々な教えを語り、天に昇られるとき、弟子たちを宣教へと送り出していきます。16節には「十一人の弟子」と記されているとおり、イエスを裏切ってしまったイスカリオテのユダを除く弟子たちがイエスに会う場面です。このユダも、金銭でイエスを裏切り、その事を後悔して自ら命を絶っていきますが、その事を他の弟子たちはどのように受け止めていたのでしょうか。イエスを信じられない、裏切ってしまったのは、ユダだけではなかった。ペトロも、3度、「イエスを知らない」と言い、その繋がりを断ってしまったことが聖書には記されています。それでも、イエスはこの弟子たちを世界宣教へと送り出していく。しかし注目したいのは、17節にある「しかし、疑う者もいた」という言葉です。復活のイエスに出会い、奇跡を目の当たりにしても、信じられない弟子がいた。そこには、「信じることの難しさ」がはっきりと示されているのです。
わたし達も聖書の言葉を読み、励まされ、希望をもって新しい一週間に押し出されていきます。しかし、その道中の様々な艱難に遭う時、神を疑ってしまう自分と出会うことがある。そんなとき、とある詩を思い出します。「あしあと」というこの詩では、波打ち際の砂の上を主と共に歩いていた時、これまでの足跡を見ると、辛い時や悲しい時には一人分の足跡しかなかったことに気が付いた主人公が、「なぜあの時に一緒にいてくださらなかったのか」と主に問うと、「その時は、わたしはあなたを背負って歩いていた。」と主が応えるというものです。
今回の聖書の言葉にあるように、たとえ様々な艱難があろうとも、思わず疑いをもってしまうときでも、主が「いつもあなた方と共にいる」と約束してくださって、愛をもって支えてくださるという喜びと希望が聖書によって伝えられています。なにより、わたし達の共にある歩みの中で、気が付かないところで密かにわたし達を支え導いてくださっていた、信仰の友たちのように、わたし達もイエスやこれまでの愛する人たちに倣い、共に生き、共に支え、共に喜び合う交わりを成していくことが出来ればと願います。疑い迷う、弱いわたし達でも、今こそ、それでも信じるのだと、信仰と、またそれぞれの想いを賛美に乗せて、地上にも、天上にも届けていくことが出来ますように。
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