5/7 「友として」  三浦 遙   聖句:ヨハネ15:11-17

  小さい頃は、友達を作ることなんて簡単なことだと思っていました。しかし、大きくなるにつれて、「友達」とは何かと思い悩んでしまうことがあります。色々な意味で「友」という言葉が用いられていきますが、今回の箇所では、イエスご自身がわたし達に対して「友である」と語り掛けてくださっています。

 ヨハネ福音書の15章には、「まことのぶどうの木」という有名なイエスの言葉が記されています。木の枝が木の幹に繋がっていることで、豊かな実を結ぶように、イエスに繋がっていることの大切さを示したものです。では、イエスとの繋がりとはいったいどのようなものでしょうか。今回の箇所の冒頭で、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、喜びが満たされるため」と記されています。それは、前の箇所にて、神がイエスを愛しており、イエス自身が神の掟を守り、その愛に繋がっていたのと同様に、あなた方も、わたしの掟を守り、イエスの愛に繋がっているようにと示されるのでした。

 神の掟は、モーセによって伝えられた事細かな律法によるものでしたが、イエスの示す掟は「互いに愛し合う事」という単純でありつつも、難しい掟です。しかし、イエスは既にその愛を示されたとあります。「わたしがあなた方を愛したように。」という言葉は、「友のために命を捨てること」という十字架による贖いによって明確に示されるのです。イエスに繋がること、それは、イエスの掟に従い、愛し合う交わりを持つことである。

 しかし、注目したいのは、そのイエスとの関係が主従関係ではなく、友としての関係であると示されていることです。互いを知らないもの通しではなく、どちらかの力が強い関係ではなく、対等の関係であると。本来なら、イエスとわたし達では対等などあり得ないものですが、イエスご自身がそのように歩み寄ってくださる。それは、地上に下り、わたし達と同じ痛みや不安をも分け合ってくださる友としてのイエスの在り方をはっきりと示してくださっています。

 イエスが示された「互いに愛し合う」ということと、友として向き合うということ。この言葉も人それぞれ受け止め方が異なってくるものかもしれませんが、自分を伝え、互いを知り、違いがあってもなお繋がりあっていく。イエスが地上でなされたことの中に、「互いに愛し合うこと」と「友として向き合うこと」が示されています。わたし達は、イエスの言葉に聞き従い、イエスに繋がる中で、喜びに満ち溢れて歩んでいくことが出来るよう、祈りつつ、新しい一月を歩んでいきたいと願います。 

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