4/23 「イエスと魚」 三浦 遙 聖句:ルカ24:36-49
主イエスが復活された知らせが多くの人に告げられていく中、イエスに付き従っていた弟子の代表である12弟子の中には、未だそのことを信じられない人々がいました。しかし、今回の箇所でまさにその弟子たちが復活のイエスについて話し合っている時にイエスが登場しています。弟子たちは、突如現れたイエスに対して、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とありました。復活したイエスを目の当たりにしてもなお信じられない弟子たち。イエスが「よく見なさい」と声を掛け、手足を触らせてもなお、「喜びのあまり信じられず、不思議がっていた」のでした。すると、イエスは「何か食べ物はあるか」と尋ねています。そこで焼いた魚を差し出すと、それを取って弟子たちの前で食べたのでした。そして、自身について、そして聖書を諭させるために言葉をかけていくのでした。
注目したいのは、結局弟子たちがイエスの復活を信じたかどうかが明確に示されていないということ。そして、そんな疑い深い弟子たちにイエスが何度も何度も自身の復活を示そうとされていることです。女性たちは主の使いの言葉によって復活を信じますが、エマオに向かう二人の弟子や、当時の権力者たちの迫害を恐れ、逃げ隠れている弟子たちは、すぐにはイエスの復活を信じられませんでした。しかし、そんな弟子達の為にイエスは歩を止め、声を掛けていくし、逃げ隠れる弟子たちの真ん中に姿を現していきます。それはヨハネ福音書の言葉を借りれば「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という願いにも似た思いがあったのだろうと思われます。イエスが弟子たちに求めるのは、忠誠でも能力でもなく、ただ主なる神を信じる心、信仰のみでした。そのことは後の物語でも描かれていくものですが、魚を食べてまで弟子たちが信じる者となるために尽くしてくださるイエスの愛を知ることが出来ます。
わたし達にとっても信仰というものは、中々に難しいテーマかもしれません。イエスを信じること、聖書の言葉により頼んでいくこと、何よりそれらを実践していくことは容易ではありません。しかし、そんな疑い迷うわたし達であっても、あらゆる手を尽くして「信じる者」とされてくださる、招いてくださるイエスや神様に応えていくことが出来ればと願います。わたし達が願うものも忠誠ではなく能力ではなく信仰によって繋がり、支え合っていく愛ある交わりであることを思い越しつつ新しい1週間を歩むことが出来ますように。
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