4/2 「何をみていたのか」 三浦 遙 聖句:ルカ23:44-56
受難節の最後の週は受難週と言われ、今週の金曜日にはイエスが十字架に掛けられる受難日とされています。本日の箇所では、イエスが十字架に掛けられた時の様子が描かれていました。イエスが十字架に掛けられてから12時から15時まで3時間が経過し、全地が暗くなり、神殿の垂れ幕が裂けた時、イエスは最後の力を振り絞って「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と叫んで息を引き取られます。ほかの福音書では「わが神、なぜお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びであったり、大声で叫んだとだけ記してあったりと表現は変わりますが、最後まで神だけを見つめて生き抜いたイエスの姿が描かれています。
このイエスの生き様は多くの人の印象に残ったことでしょう。その場にいた百人隊長は「この人は正しい人だった」と言葉を漏らしています。見物に集まっていた人々も、深い悲しみの表現として胸を打ちながら帰っていったのでした。そしてイエスを知っていた人たちと婦人たちは遠くから見ており、イエスの埋葬を見届けていきます。それは、イエスの遺体をしっかりと埋葬する準備のためであったとされています。今回の箇所では、まさに、「見る」という事が注目されていくのです。言葉ではない、しるしではない、ただイエスの生き様を見届けること。その十字架の死を通して人々は何を見ていたのでしょうか。今のわたし達は何を見るのでしょうか。イエスの痛みか、嘆きか、信仰か。何よりも見つめるべきはイエスの死を通して示されていく神様の愛ではないかと思わされます。終わりゆく姿を見届ける、それで終わりではなく、その後にどのように歩むべきかという、「先を見つめていく姿」が描かれていくのです。
新型コロナウィルスの苦難の時、わたし達もただ見つめることしか出来なかったときが多くありました。また、わたし達は、実際に見ることのかなわなかった十字架上のイエス。しかし、神様がわたし達を愛してくださったゆえの十字架であったという事は、様々なしるしを通してみることが出来ます。死という終わりではなく、その先に示されるものがある。今はまだ不安の多い、先行きの見えない歩みの中ですが、神殿の垂れ幕が裂けたその先に、神を賛美する祭壇画示されるように、暗くなった先に太陽の光が少しずつ輝くように、目には見えないような、気が付かないような、しかしはっきりと示されている、深い愛と希望をしっかり見つめていくことが出来ればと願います。
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