3/26 「隅の親石」  三浦 遙   聖句:ルカ20:9-19

  今回の箇所では、イエスらがエルサレムに到着した後の物語が描かれていました。イエスにとっては受難のための旅の終着点でもあります。今回の箇所でイエスが「ぶどう園と農夫」のたとえを語っていました。主人からぶどう園を任された農夫たちが、主人の僕たちを追い出し、暴力をふるっていきます。見かねた主人が、自身の息子なら大丈夫だろうと送り出しますが、農夫たちは相続財産を奪うために主人の息子を殺してしまうのでした。イエスは人々に対して、主人はこの農夫たちを殺し、別の人に園を任せるだろうと伝えていますが、人々は「そんなことがあってはなりません」と応えていました。それは、農夫たちがあまりにも非情な行いをしている事への批判か、自分たちはそんなことはしないという自負かはわかりません。その人々の言葉にイエスは「家を建てるものが捨てた石、それが隅の親石となった」という詩編の言葉を引用しています。これは、「聖書にはそのような非情なことが起こってしまうと既に示されている」というイエスの応答になります。家を建てる者、言い換えれば神の国を建てる専門家(律法学者たち)が不要だと捨てた石(イエス)が、神の国を建てる際の重要な石となるということです。

 この「隅の親石」という言葉は色々な訳がなされています。かしら石や礎石、そして要石です。どれも建築においては重要なものですが、とくに要石は二つのものを繋ぐ重要な石とされています。ぶどう園の主人が、農夫たちが拒絶してもなお僕を送り出したこと、そこには主人の優しさや愛が示されています。最後に送り出される息子としては恐怖しかなったのではと思ったりもしますが、農夫たちを想い、期待し、何度も手を差し伸べる主人の愛に、農夫たちが気付くことが出来ていれば、違った結末があったのかもしれません。イエスは、そんな悲惨な結末にならないために、捨てられてもなお、当時の人々から拒絶されてもなお、神の国を支える石としてその身を捧げていく。

 わたし達自身、新しい年度に向けて、これからも取捨選択をしていく時がありますが、わたしたち自身が捨ててはならないもの、教会として、神を信じる一人として、しっかりと受け止め、大切に持ち続けていかなければならないものがあるのだと思わされます。誰かを思いやる心、謙虚さ、何よりも神を愛し、自分を愛するように隣人を愛していくこと。新しい年度が始まるこの時、それらを思い起こしつつ、感謝をもって歩んでいくことが出来ればと願います。 

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