3/12 「自分の十字架」  三浦 遙   聖句:ルカ9:18-27

 今回の箇所の冒頭にて、イエスが弟子たちに「群衆はわたしのことをなんといっているか」と尋ねています。イエスも周りの評価を気にするのかとも思ったりもしますが、弟子たちからの「洗礼者ヨハネだという者も、エリヤだ、生き返った預言者だという者もいる。」という応答を見ると、当時の群衆たちがイエスを神の子や救い主であるとは思っていない事が分かります。しかし、弟子たち、とくにペトロはイエスのことを「神からのメシア」であると信仰告白ともとれる応答をしていました。ですが、その後その事をほかの人には言わないようにとイエスは命じ、自分が当時の権力者たちによって殺され、死後三日後に復活すると告げています。

 なぜイエスは神からのメシアであることを伏せ、加えて受難予告を行ったのか。それは、神からのメシアであるという事とこの受難とが切っても切れない関係にあるからだといえます。受難予告の中で当時の権力者たちによって排斥されて殺されるとイエスは言います。イエスの死の理由は人々から受け入れられなかったことにあるというのです。そして、それらは「必ずすることになっている」と強調しています。これはイエスの想いや人々の想いではなく、「神がそう望まれている」という事です。群衆がイエスを預言者として見、なおかつ自分たちの都合の良い王として連れて行こうとしていたことも、言い換えればイエスを神からのメシアであることを受け入れていない、救い主イエス・キリストを排斥している。神からのメシアであるイエスを受け入れるという事は、自分たちの想いではなく神の想いを中心に置くという事。だからこそ、それらがまだできていない群衆たちに、神からのメシアであるという事実を知らせないようにと命じられたのでした。

 自分の想いでは無く神の想いを求めること。そのことをイエスは「自分の十字架を背負い、従いなさい」という言葉で示してます。自分を捨てるという事は誰かの言いなりになることではありません。誰しも、人に知られたくない、見せたくない自分の嫌な部分、受け入れられない部分があります。しかし、そんな十字架のようなものを、すべて受け入れて、わたし達の為に十字架に掛けられたイエスがいる。そうした排斥したい思いや排斥したい自分自身にイエスさまはおられる。わたし達が捨てようとしている部分、受け入れられない十字架のようなものを、しっかり担いで、その十字架をイエスや神様に預けていくことが今回の箇所において示されているのです。 

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