2/12 「出来れば平和に暮らしたい」 三浦 遙  聖句:ロマ12:9-18 

 今回の箇所の冒頭では「愛に偽りがあってはなりません。」という言葉があります。しかし、偽りの愛とはどのようなものでしょうか。それは、愛を語りつつも人を欺き、引き離すものと言えるのかもしれません。今回の聖書の箇所は「キリスト教的生活の規範」と書かれた個所で、この12章から使徒パウロによってキリスト教を信じる人々に向けて語られた「新しい生き方」についてが記されています。パウロは、愛とは偽りがあってはならないと伝え、続く言葉において「愛」の何たるかを示しています。「悪を憎み、善から離れず、互いに愛し、尊敬をもって互いを尊重し、怠らず励み、霊に燃えて主に仕えること。」「たゆまず祈り、努め、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く事」など、様々な言葉で「愛とは何か」を示していました。

 しかし、注目したいのは16節の、「できれば、せめてあなた方は、全ての人と平和に暮らしなさい。」という言葉です。冒頭の言葉は比較的厳しい言葉に聞こえます。もちろん、原文の文法的には命令形ではないので、日本語の表現の問題かもしれませんが、ほかの箇所も、はっきりと伝えているのに、この16節だけは「出来れば」とか「せめて」と消極的な印象があります。それは、「出来ないかもしれないが、努めて行ってほしい。優先してこれだけは実現してほしい」という願いのようなものが込められているのかもしれません。というのも、この愛を行うという事自体が、非常に難しい事柄であるとパウロは良く知っているのです。パウロが冒頭から語っている「愛」というのは、言葉の意味として「神の愛」であり、人間はその愛に倣って生きていき、神の愛に委ねていくしかないのだと示すのです。でもせめて、あなた方に出来ることとして「全ての人と平和に暮らしなさい。」とあるのは、愛することが出来なくとも、復讐をせずに神に委ねるということです。

 わたし達は、人と関わる中で、本当に多くのことを共有し、分かち合っています。それは良いものだけでなく、怒りや妬みなどの傷つけてしまうものもあります。ちょっと腹が立って、相手にぶつけてしまうことはよくあることです。しかし、どれだけ怒りや妬みなどの復讐を受けたとしても、それらを「善」で返していくことを神様は求められているのです。「右のほほを打つなら、左のほほも向けなさい。」というイエスの言葉のように、愛を正しく行うことは出来なくとも、神の愛に倣って歩んでいきたいと願いつつ、せめて出来れば、受けたものを全て良いものに変えてお返ししていくことで、主の示す平和に地被くことが出来るのかもしれません。これからも、多くの人と関わる中で、このパウロの言葉を思い起こしながら、愛と平和を求めて歩んでいくことが出来ればと願います。

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