1/29 「献げ物を」 三浦 遙 聖句:ルカ21:1-9
コロナ過の歩みが長らく続いてきた2022年度でしたけれども、年度終わりが近づき、振り返りと総括の時期が近づいてきました。何が出来て、何が出来なかったのかという目に見える振り返りも必要かもしれませんが、それ以上に、わたし達は神様としっかり向き合って歩むことが出来たのかという事柄についてもしっかりと向き合っていければと思います。その様に目に見えない事柄に目を向ける大切さが今回の箇所においても記されていました。
今回の箇所ではエルサレム神殿の中にある賽銭箱へ献金を捧げる人の姿が描かれていました。イエスは、あるお金持ちが賽銭箱に献金を捧げているのを見た後、貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を捧げられたの見て「あのやもめは、誰よりもたくさん入れた」と示しています。一般的に考えて、お金持ちが沢山の献金を捧げたこととやもめが銅貨2枚を捧げたことでは、前者のほうが圧倒的に高額の献金をしたはずです。しかしイエスは、「このやもめは乏しい中から全てを捧げた」と言い、金額ではない部分でやもめを褒めるのでした。
献金というと、多く捧げることのほうが良いとされますし、イエスもそのこと自体を否定はしていません。しかし、献金というのは、わたし達の時間や力をお金に換え、命を守るために用いるものを神に捧げることを意味しています。言い換えれば、自分たちの生活や命を神に捧げることと同じであると言えるのです。それは、金額ですべて表せるものではなく、かといって人がその価値を定めることのできない、まさに献身と表せるものです。神は、その金額や量ではなく、その人がいかに命と生活を神に捧げようとしたのかという、目に見えない部分をしっかり見つめ、受け止め、喜んでくださるのです。後の、神殿の崩壊の箇所や、終末のしるしの箇所においても、まさに目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぐことの大切さが暗に示されています。
この献金のお話は、わたし達にとっても中々に受け入れがたい部分があるかもしれません。金額ではないと言いつつ、お金が無ければ教会も成り立たなくなっていきます。かといってこのやもめのように乏しい中から全てを捧げることも難しいものです。それでも、わたし達はそのような人間的な価値観に立つのではなく、神様がわたし達一人一人の献身を受け止め、喜んでくださるように、わたし達に出来る形でこの身を献げていくことが出来ればと願います。それは、誰かと比べられるものではなく、神様とわたし達一人一人の中で、見つめていくものです。どのような献げ物であっても、神様が喜んでくださるように、わたし達も目に見える善し悪しではない、一人一人の信仰を持ち寄り、鳳教会として愛ある交わりを成していくことが出来ればと願います。
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