1/22 「福音は実現する」 三浦 遙  聖句:ルカ4:16-30

 人の印象というのは、なかなか変わるものではないのかもしれません。最初に抱いた印象や感情から抜け出せず、今のその人のことを新たに見つめることは難しいものです。それは、小さかった頃の印象であったり、学生時代の印象のまま、大人として再会した時によく抱くものかもしれません。本日の箇所でも、その難しさが描かれていました。

 福音宣教を始めたイエスが、ガリラヤの各地の会堂で福音を語っていた中、故郷であるナザレの会堂でも聖書の話をされたと記されています。イザヤ書の言葉を引用し、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき実現した」と語るイエス。ナザレの人々にとっては、大工のヨセフの息子という印象しかなったイエスが、恵み深い言葉で語り始めたことに驚いています。しかし、その後の出来事は殺伐としたものでした。イエスの恵み深い言葉に驚きつつも、人々の心には「この人はヨセフの子ではないか」という想いがあったとあります。それは言い換えれば、本当に神の子であり、救い主ならば、「ヨセフの子」という思い込みから抜け出せるような御業や奇跡を起こしてみせろ、という想いであったのです。

 しかし、その事に対してイエスは察して、「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」といい、旧約聖書の預言者であるエリヤとエリシャの物語を引用しています。この預言者エリヤとエリシャの物語は、まとめると「自分たちが神の民である」と自負していた人々ではなく、神はエリヤとエリシャを敵国であり異邦人であった人々へ遣わされた。というお話でした。つまり、このナザレの人々が神を信じず、イエスを疑っている間に、イエスや神はナザレの外で福音を示されるだろうと暗に伝えたわけですね。もし、すぐに信じるのであれば、違った物語があったかもしれませんが、ナザレの人々はイエスを信じられず、受け入れられなかったのでした。イエスの言葉を聞いた人々は激怒し、イエスを崖に追いやって突き落とそうとしたとあるように、殺す勢いでイエスを責め立てるのでした。

 この物語は、イエスが故郷で受け入れられないという物語ですが、重要なのはそのような場所であっても、福音が語られ、イザヤの言葉にあるように人々を解放し、自由にする主の御業がイエスによって実現していくという良い知らせが語られたという事と、その福音を受け入れるかどうかは受け取った人々に委ねられているという事です。神のしるしが与えられるのは、救いを求める人々であって、疑ったり、救われて当然であると高慢になっている人々ではないという教訓が込められているように思います。印象を捉え直し、人と出会い直すことは難しいかもしれませんが、主の言葉であっても、何度でも出会い直し、捉え直すことによって恵み深い言葉として豊かな導きが示されていきます。その言葉が語られ、わたし達が受け入れる時、まさに福音が実現していくのです。 

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