1/15 「イエスと共に」三浦 遙  聖句:ルカ5:1-11

 誰かを信じ、付き従うという事は言うほど簡単なものではないのかもしれません。学校の先生や政治家であっても、人間的な弱さを持ち、時には信じられない部分が見えてしまいます。聖書に登場するイエスの弟子たちはどうだったのでしょうか。今回の箇所では、漁師であったシモン達がイエスの弟子になる物語が描かれています。この物語は、マタイ福音書やマルコ福音書においても、同様に描かれていくのですが、そこには「わたしに従いなさい。人間を取る漁師にしよう。」と声を掛けられたシモン達が船も仕事も家族さえも捨ててイエスに従う様子が描かれていました。一見、不可解な出来事と読めてしまいますが、その点、ルカ福音書ではなぜ弟子となったのかという事が良く共感できるように描かれていました。

 イエスはこの物語に至る前に、各地で福音宣教を行い、多くの病人を癒していました。そのためか、群衆がイエスのもとに集まり、ごった返していた様子が読み取れます。そこでイエスは湖のほとりにあった船を見つけ、その船で漁師をしていたシモンと共に少し沖へ出て、教師として腰を下ろして教えを語り始めるのでした。しかし、不思議な出来事は説教の後に起こります。イエスが話し終えた後、シモンに対して漁をしなさいというのです。この時シモンは「夜通し漁をしても何も釣れませんでした。しかしお言葉ですから」といって漁を行うと、引き揚げきれないほどの魚が釣れたのでした。このことは、イエスが魚を操れたという事よりも、良く釣れるタイミングを知っていたと読むほうが自然かもしれません。それは、イエスは物事において全て良い時を御存じであるという事です。するとイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言い、シモンの心は、単なる興味から畏怖の念へと変わっていきます。そんなシモンに対してイエスは「あなたは人間をとる漁師になる。」とだけ告げることで、シモンやヤコブ、ヨハネという漁師たちは仕事も家族も捨てて、自らイエスの弟子となるべく従っていくのでした。

 マタイやマルコとは違い、イエスの教えや奇跡を目の当たりにすることで、イエスを尊敬し、イエスという存在を信じ、委ねていきたいと思わされた様子が描かれたのでした。しかし、覚えておきたいのは、弟子となった経緯ではなく、どのように共に歩んだかという事です。以前、信徒の方で「イエスの生き方に惚れたから洗礼を受けた」というお話を伺ったことがありました。イエスを信じ、イエスに惚れ、イエスと共に歩んでいきたいと思わされる背中に、わたし達も大切な物を受けてきたのだと思わされます。 成人として歩むことや、キリスト者として歩むとき、その目標はこのイエスの生き様であり、神のみ言葉や御心といえます。この弟子たちの物語を通して、その事を思い起こしつつ、これからもイエスと共に歩んでいきたいと願います。 

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