1/8 「福音の前触れ」 三浦 遙 聖句:ルカ3:15-22

「・・・わたしよりも優れた方が来る。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。」ルカ3:16b


イエス・キリストが福音宣教を始める前、洗礼者ヨハネという人物が先に人々に洗礼を授け、福音を宣べ伝えていたことがどの福音書においても記されています。この洗礼者ヨハネはイエスの母マリアの親戚であるエリザベトが聖霊によって身ごもった子であり、イエスと同じように特異な出生を持つ人物です。このヨハネについて主の天使は「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:17)と示されています。そう、このヨハネは主のために先に行き、準備をするため、主の道を整えるために遣わされていくのでした。洗礼者ヨハネは人々に教えを語っており、今回の箇所の少し前の部分では群衆が集まり、中には徴税人や兵士もいたとあります。誰もがこのヨハネの言葉を信じ、教えを請い、洗礼を受けようと集っていた。しかし、今回の箇所では民衆が待ち望んでいたメシアはこのヨハネではないかと考えていたとあります。人々を導き、平和と永遠の命を与えてくださる偉大な指導者が神から与えられる。それがこのヨハネだと思ったのです。そのことについてヨハネは「わたしよりも優れた方が来る。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。」というのです。なかなかにインパクトのある表現です。履物のひもを解く値打ちもないというのは、遠く及ばないほど偉大な方が来られることを想像させられます。このヨハネにそこまで言わせる人物がメシアとしてこられるというのは嬉しさ半分、恐ろしさをも感じさせるものです。ほかの福音書ではその後、ヨハネとイエスが出会い、ヨハネから洗礼を授けられるイエスの物語がありますが、ルカ福音書ではその部分が大幅に削除されています。というのも、イエスとヨハネの出会いが、ここでは明確に描かれていないという事です。それはイエスの洗礼がヨハネの投獄前か後かも曖昧であるという事でもあり、他の人に紛れてイエスが洗礼を受けられたという事かもしれません。明確にヨハネがイエスを認識するのは7章にて弟子を通じて「来るべき方はあなたでしょうか?」と尋ねた時でしょう。この洗礼者ヨハネもイエスと出会うことはなかったのでした。しかし、そんなヨハネは、ただ主なる神を信じて、福音の前触れとして多くの人々に語り掛けてったのでした。イエスの宣教は一人で成しえたものではありません。たとえ奇跡や偉大な教えを語ったとしても、その道を整えたヨハネの存在は重要なものとして描かれていきます。それは、今のわたし達も同様です。ヨハネやイエス、その弟子たちが道を整えてくれたからこそ、信仰の道を歩むことが出来る。何より、これから主の道に加えられる人々、また再びイエスが来られる時のために、今のわたし達が道を整えていくことが求められているのです。2023年のこれからの歩みも、良い意味で整えていくことを願って歩んでいきたいと願います。

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