1/1 「新しいわたし達」三浦 遙   聖句:マルコ2:18-22

「・・・また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」マルコによる福音書 2章 22節 


 聖書の時代に、断食というものがありました。医学的にも意味のある行いですが、長らく宗教的な意味合いを深く持つ行いです。それは、神への悔い改め、罪の告白を現わすものでした。有名なのは旧約聖書のダビデ王が、不倫した際に、断食をして神に許しを請うています。この断食は年に1回から、イエスの時代には年に4回へと数を増やしていきます。人々は断食をすることによって神への悔い改めを現わしていたし、回数を増やすことで、より深く悔い改めていると表現したかった。

 しかし、今回の箇所で名前が挙げられているファリサイ派の人々は、それ以上に週に2回ほどの断食をすることで、神の教えを熱心に守り、より深く悔い改めていることを体現していたとされます。このことを洗礼者ヨハネとその弟子たちは批判していました。「蝮の子よ。回数を増やすことや、心の伴わない断食に意味はない。それは神の御心に適うものではない。」というのです。ヨハネとその弟子達も断食を大切に行っていましたが、数ではなくどのように行うのかが大切であるというわけです。

 ところが、今回の箇所では、イエスとその弟子たちが「断食をしていない」と批判を受けています。イエスとその弟子たちは、断食をするどころか、罪人と呼ばれた人々を招いて何度も食事会をしていたからです。すると、イエスは「花婿がいるのだから婚礼の客は断食をしない。」といいます。神が人々を神の家族として迎え入れてくださるために花婿としてイエスを与えられた。そのための婚礼の時であり、断食することは神の御心ではないと言うのです。自分たちこそが神の御心に適うことをしていると信じていたファリサイ派の人々にとっては受け入れがたい言葉です。

 そのように、イエスの言葉、新しい教えを受け入れられない人々に対する言葉が、21節以降の言葉になります。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れはしない。それは、新しいぶどう酒も古い革袋もダメにしてしまう。新しいぶどう酒は新しい布袋に入れるものだ。」ファリサイ派の人々のように、神の教えを大切にすることは良いことですが、その教えがイエスによって新しいものに変えられた今、古い教えばかりを信じ、新しい教えを受け入れないことを批判するのです。新しい教えを受け入れるならば、その受け入れる人々も新しい心によってそれを受け入れていくことが求められたのでした。

  2023年、新しい年を迎えたわたし達。よく、この新年から、新たに始めていく、歩みだしていくと語られていきますが、覚えておいてほしいのは、わたし達自身はいついかなる時であっても新たな心をもって歩みだすことが出来るという事です。特に、毎週の礼拝を通して、わたし達は日々新たにされている。新しい教え、新しい言葉、神のみ言葉という日々新しくなっていくものを受け入れていくために、わたし達も、また教会も、日々新たに歩みだしていくことが出来ればと願っています。 

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