6/7 「主に用いられても」 三浦 遙牧師  聖句:使徒4:13-31

 ペトロとヨハネは各地で福音を宣べ伝え、癒しのしるしを示していましたが、その活躍を見て議員や権力者たちは慌てふためきます。13節に「二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」とあるように、当時は学力や学歴の格差が今以上にひどく、文字の読み書きや律法の解釈は特別な教育を受けた人々にしか担えないものでした。そのような時代に、元漁師の二人が議員たちをはるかに上回る話術と知識を示したことへの驚きは、相当のものであったと思わされます。

 糾弾したい議員たちでしたが、目の前で起きた癒しの奇跡を否定することもできず、こっそりと二人を呼び出してイエスのことを語らないよう脅します。しかしペトロとヨハネは「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」ときっぱりと断ります。これは義務感から語っているのではなく、体験してしまったから黙っていられない、という言葉です。同じ境遇の二人がそんな権力者たちに真っ向から向かい合う姿に、多くの群衆が大きな希望に包まれたのだということが伝わってきます。釈放された二人が仲間のところへ戻り、あったことを残らず話すと、人々は心を一つにして神に祈りました。その祈りの核心は「脅しから守ってください」ではなく、「その中でも大胆に語ることができるように」というものでした。

 また彼らは、イエスを十字架に追いやった権力者たちの行いでさえ、神のご計画の中にあったのだという確信を持っていました。創世記のヨセフが兄たちに売り飛ばされながらも大飢饉から多くの命を救ったように、神は人間の悪の行いをも善い業のために用いられていく方なのです。

 この物語を読む時、議員や指導者たちはどうしても「悪役」に見えますが、彼らも本来は神を信じていた人々のはずです。何が良くて何が悪いのか見えにくいこの時代に、良いと信じて行ったことが誰かを苦しめてしまうことがある。もしかしたらわたし達も、気づかないまま、そのような役割を担ってしまうことがあるかもしれません。十字架の上でイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。その祈りはわたし達自身への言葉でもあるかもしれません。悪役として用いられることさえあるかもしれない。それでも神様はすべてを良い業へと向けてくださる。どのように用いられるとしても、平和を願い、隣人を愛し続けることは変わらない。そこが、わたし達の信仰の土台なのだと思わされます。