3/16 「内輪として」 三浦 遙 聖句:マタイ12:22-32
イエスは宣教の中で様々な教えや奇跡を行ってきました。しかし、それらを見た人によって受け止め方が違っていく様子が描かれています。イエスが目も口も不自由な人を癒された奇跡を行った時、ファリサイ派の人々は神の権威ではなく悪魔の力であると批判をしていました。加えて、その日は安息日であり、ファリサイ派の人々とはイエスを殺そうと策略していたことが12章の前半に描かれていきます。ここには、救い主の到来を予感する人々の期待を否定するだけではなく、律法で禁じられていた「魔術」を用いるイエスを「偶像崇拝者」として死刑にしたいという強い殺意を含む言葉でもあります。徹底的にイエスを拒絶する姿があります。
これらに対してイエスも反論をしますが、注目したいのは「内輪揉め」という言葉。文面では「悪霊同士の内輪揉めはあり得ない」という意味ですが、イエスはファリサイ派の人々を含めて「神を信じる人々の内輪揉め」についてを意識しているように思われます。12章から描かれる権力者達との議論の一幕ではありますが、「内輪揉め」という言葉において、また「神の国はあなた達のところにも来ているのだ」という言葉を通して、敵をも諭し、「内輪」として導こうとされるイエスの姿があるように思うのです。
天国と地獄にまつわるお話は様々ありますが、中でも印象的だったのは「長いスプーン」のお話です。地獄では豪華な食卓が用意されていても、用意されたスプーンがあまりにも長いため、自分の口に届かず皆が飢え渇いている。しかし天国では、長いスプーンを使って隣人の口に添えることで皆が満腹しているというものです。興味深いのは天国も地獄も同じ食卓が用意されているということ。同じ状況であってもそこに思いやりや愛が有るか無いかでその光景は天国にも地獄にもなりうるのです。神の国は私達のところにも来ている。しかし、嫉妬心や欲望によってそれらを蔑ろにし、地獄にもしてしまう弱さがあることを私達は強く意識しなければなりません。イエスが受けられた排除と拒絶ではなく、交わりを持って神の国を受け入れていくことが出来ますように。
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