8/25 「明るい世界で」  三浦 遙   聖句:エフェ5:11-20

  わたしの高校の同級生が熊本にてブレーメン珈琲店という珈琲屋を営んでいます。その店のコンセプトは「いつだって名作には名脇役がいる」というものです。主役、主人公、それぞれありますが、物語という意味では、その1人だけではなく、周りの人々や物事によって主人公は照らされて、より輝くものです。今回の聖書の箇所においても、「光」という言葉がキーワードとなります。

 今回の箇所の前の部分には「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」という言葉が記されていました。注目したいのは、イエス・キリストや神様が光というわけではなく、キリストを信じる人々、教会の人々が光であると伝えていることです。そのことを踏まえて、今回の箇所が語られています。

 冒頭の11節以降では、「暗闇の業に加わらない」ことや「その業を明るみに出しなさい」とありました。これは悪事を明らかにし、共に光として歩むように諭し、導くことをこの手紙では薦めています。注目したいのは最後の言葉で、どのようなことであっても、神への感謝を忘れてはならないという部分。神に感謝するとは、神のことを日々思い起こし、そこに立ち返ることでもあります。道に迷う時、道を間違える時があったとしても、日々、神様のことを思い起こし、感謝を忘れなければ、暗闇から光へと導かれていくという信頼が示されているのです。

 その上でお伝えしたいのは、「わたし達も誰かを導く光となれる」ということです。この手紙を通して、「神様に感謝する」ことが勧められていますが、その言葉の奥にあるのは、導かれるだけではなく、あなた方が光として周りの人を照らし、助け、導いていくという期待と信頼です。わたしには恩師と呼べる人が大勢います。どの想いも出会いも、今のわたしが道に迷う時、辛い時、まさに暗闇にいるような苦しみの時に、光のように励まし、導いてくれるものです。聖書の言葉も同じく、どれだけ大変な時でも、聖書の言葉、神様の言葉によってわたし達は励まされ、導かれてきました。しかし、それだけではない。わたし達を良い方向へと導いてくれた光のような存在に、今のわたし達も誰かの光として支え、導くことが出来ると聖書は語るのです。誰かの失敗や醜い部分を晒すのではなく、その人の心に安心や希望を示す光となること。一人一人が主人公で、そして誰かのための脇役となるような、そのような関係や交わりを、明るい世界を、それぞれの場で、また教会で体現してくことが出来ますように。

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