12/31 「嘆きを聞いて」  三浦 遙   聖句:マタイ2:16-23

 聖書のクリスマス物語の後半には、今回の箇所にあるように当時の圧政の姿が克明に描かれています。1人の傲慢な王が、自身の保身の為だけに市民の大切な子どもを皆殺しにするのです。それは圧政という言葉だけでは形容し難い、歪みきった人間関係の姿です。言い換えれば、当時の世がそれほどまでに混沌としていたということでもあります。クリスマスの物語においても、羊飼い達やマリア自身も、当時の社会において虐げられ、差別される人々であったことが描かれていますが、よりその「社会から追いやられた人々」の苦しみが今回の物語において示されているのです。

 そんな中、率直な疑問となるのは、神様がこれらの出来事をどのように受け止めておられるのかということです。わたし達の身の回りに起きる「惨事」は、目まぐるしい程に溢れ返っていますし、今なおその悲惨さの中で過ごしている人々がいる。「なぜ?」と問わざるを得ないこれらの「惨事」と「神様の御心」との間で、わたし達の信仰は揺れ動いてしまうものです。結局、それらの答えは解らないもので、納得できるものではないのかも知れませんが、それでも思い起こしていただきたいのは、神様は必ずわたし達の「嘆き」を聞き入れてくださっているという事。何より、その嘆きを聞き、共に痛みを担ってくださる方であるという事です。

 物語の中で、ヨセフ達はヘロデ王が死に、イスラエルに帰る際、それでも不安と恐れを抱いていたとあります。惨事により、先の見えない不安がヨセフ達の心を支配していたのでした。しかし、ここでも主の天使は「恐れるな」と声をかけるのです。これら全てが主の計画の一部であり、最後には惨事を超えて大いなる慰めのある平和が示されていくという「神様の約束」が示されていくのです。

 今なお、わたし達の心には日々起きる惨事の中で、神様への信仰が揺らいでしまうことが多くあります。「神様はわたし達を見捨てられたのではないか」と不安を抱くことがあります。しかし、クリスマスにおいて示されたように、いついかなる時でも神様はわたし達の隣を歩き、共に喜び共に泣き、そしてわたし達が辛い時にはその背に担ってくださる方であるのです。何より共に歩む先には、神様の平和が示されている。わたし達は、揺れ動きながらも、それでも嘆きを聞いてくださる神様を信じ、委ねつつ、歩んでいくことができればと願います。2023年の一年が守られたように、2024年の歩みがより豊かに祝福されますように。

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