9/13 「筆舌に尽くし難い」 三浦 遙牧師  聖句:2コリ9:6-15

 本日の箇所は「エルサレムの信徒のための献金」という小見出しがついています。困窮していたエルサレム教会のために、パウロがギリシアの諸教会へ呼びかけた募金の言葉です。これは困った人を助けるだけの働きではなく、ユダヤ人の教会と異邦人の教会という、もともと隔たりのあった者どうしが結ばれていくことに、パウロは望みをかけていました。

 6節「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。これだけでは取引の話に聞こえますが、7節は「不承不承ではなく、強制されてでもなく」と続きます。大事にされているのは「喜んで」の一語です。では、その喜びはどこから来るのでしょうか。10節「種を蒔く人に種を与え」。蒔こうとしているその種は、そもそも初めに与えられたものだというのです。捧げる以前に、わたしたちはもう受け取っている。与えることよりも先に、受け取るということがある。

 高校の時、当時の校長先生が「自分を愛さないやつには他人を愛せない」とおっしゃっていました。当時は分かりませんでしたが、「隣人を自分のように愛しなさい」の裏返しだったのだと思います。「自分なんて愛される値打ちがない」。それは謙遜のようでいて、自己否定でしかないのかもしれません。自分を否定することは、わたしを愛してくださる神の思いも、まなざしを向けてくれる一人一人の祈りも、いりませんと捨ててしまうことになるからです。自分を愛するとは「愛されてもよいのだ」と自分に許しを出すことかもしれません。

 14節には、献金を受けた人々が今度は献げた側のために祈る、とあります。愛は一方通行では終わらないのですね。なぜ、そこまで言えるのか。イエスがその身を献げ、神が独り子を地上へと送られたほどに、わたしたちを愛してくださったからです。15節「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」。筆でも舌でも言い尽くせないほどに、わたしたちは愛されています。だからこそ、その愛を、まだ受け取れないでいる人へと注いでいく。教会とは、愛を分かち合う交わりなのだと思うのです。