8/16 「キリストを着る」 三浦 遙牧師 聖句:エフェ4:17-32
今回の箇所で心に引っかかったのは、22節の「古い人を脱ぎ捨て」という言葉でした。過去を、これまでの自分を、丸ごと否定されるようで戸惑いを覚えます。けれども、これは過去そのものを否定する言葉ではありません。主イエスが「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と言われたように、新しい命を受け取るための、ふさわしい器を整える、いわば準備としての教えなのです。また17節の「異邦人」も、特定の民族を指すのではなく、キリストから遠く離れた生き方を指す言葉。「かつては、わたしたちも同じところにいた」からこそ、共に生きようという招きなのです。その新しい生き方とは、真実を語ること、分かち合うこと、聞く人を造り上げる言葉を語ること。どれも身近な日々の暮らしの中でのことです。
25節にあるように、わたしたちは互いに体の一部、独りで自分を磨くのではなく、交わりの中でこそ育まれるものです。とりわけ心惹かれたのは26節、「怒ることがあっても、日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」という言葉。抱えたまま眠るのではなく、その日のうちに、そっと手放していく。そして32節、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによって赦してくださったように、赦し合いなさい」。親切、憐れみ、赦し。それは、ほかならぬイエスが、その生涯をかけて示してくださったものでした。24節の「新しい人を身に着ける」とは、別の誰かになることではなく、神が初めにかたどって造ってくださった、本来の自分を取り戻していくことです。「キリストを着る」とは、そのキリストの衣を、自分の身にまとって歩んでいくこと。赦しの衣は、もともとキリストから着せていただいたもの。それを、こんどは隣の人にも分かち合っていくのです。
わたしたちは弱く、また古い生き方に袖を通してしまいますが、そのたびにまた脱ぎ、また着る。何度でもキリストを着直しながら、共に歩んでまいりましょう。
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