7/26 「あなたの要場所」 三浦 遙牧師 聖句:1コリ12:14-26
本日の箇所で、パウロは教会を「一つの体」にたとえます。手も足も目も耳も、形も働きも違うけれど、どれも欠かせない一つの体なのだと。この箇所は、人間の弱さを的確に言い当てています。エデンの園で善悪の知識の実を口にした人は、人間の目線で価値をつける基準を手にしました。しかしその基準は未熟で、「これは善い」「これは悪い」と線を引き、悪いとみなしたものを排除していきます。その未熟さは、今の私たちにも受け継がれています。
先日、ハンセン病隔離の歴史について、沢知恵さんの講演を聞きました。優生保護法やハンセン病政策のもとで、多くの患者が尊厳を奪われました。1943年に治療薬が開発され治る病気になっても、隔離は1996年まで続きました。子を持てない体にされた方、隠れて産んでも子の命を奪われた方がおられた。差別の歴史を語り継ぐ「二世」がいない、なぜなら子どもを持たせてもらえなかったから――その言葉に胸を突かれました。患者の方々は「あなたがいなくなれば、日本はより善い国になる」とまで言い渡されていたのです。優生思想は、今も生産性のない者を「邪魔だ」と切り捨てる形で残っています。
こうした痛みを心に、御言葉に立ち返ります。パウロは「弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)、「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられた」(24節)と語ります。世が切り捨てるそこを、神は「かえって必要だ」と言われる。18節「神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」。私たちがそこに置かれているのは偶然ではなく、神が「あなたこそこの場所の要だ」と望まれたからです。人にどれほど否定されても、神は「ここにあなたが必要だ」と言われます。
これは教会も同じです。不要な人など一人もいません。「あの人はいらない」という排除ではなく、「あなたが来てくれて嬉しい」「あなたが必要です」と受け入れ合う。教会とは、世が「いらない」と切り捨てた人を、神が「あなたが要る」と抱きとめてくださる場所。その眼差しを映す交わりを目指し、共に歩んでまいりましょう。
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