9/29 「天の住処」  三浦 遙   聖句:2コリ5:1-10

 自ら命を断つ人が多い今の世の中。その背景は様々なものがありますが、その多くは逃げたくなるほどに辛い現実があるからといわれます。キリスト教では、死後に新しい命ともいえる「天国」での生活が示されています。神様の御もとで平安に満ちた時が与えられる。しかし、目の前の現実が苦しい時、その天の国を切望し、地上での生を投げ捨て、蔑ろにしてしまうという問題は聖書の時代においても少なくは無かったのでした。厳しい迫害や貧困の中で、地上の住処ではなく、天の住処を拠り所としていくことで、地上の生を無意味なものと考える人たちがいたのです。

 パウロはそうであってはならないと語りかけています。地上での苦しみ、重荷を負う生活は、神が強い者ではなく弱い者にこそイエスの福音を示し、託されたことの証です。様々な病を癒し、傷を負う人々に示されたイエスの奇跡やしるしは、それらの業を通して、より多くの人々に救いが示されるためであった。弱い者とされたことで負う重荷は、イエスによって神の御心に適うための使命へと変えられていったのです。パウロはそのことを「心強い」と表現していました。まさにイエスによる救いを確信し、信仰によって歩んでいく希望があると力強く語りかけていきます。

 以前、「自死を否定することは、追い詰められた人からさらに希望を奪ってしまう。」という言葉を耳にしました。当時の教会も、今の社会も、「死」すらも希望であると思うほどに追い詰められ、弱められている人々がいる。そのことは重く受け止めていくべきことですが、キリスト教の救いは、自らの力で天の住処を求めていくことではなく、与えられた生を尽くし、キリストの救いに応え、主に喜ばれる者として御心に叶うように歩むことでこそ示されていくものです。何より、「天の住処」は最後の希望ですが、その希望は地上を生きる時の為のものであるとパウロは確信しています。

 政治が変わり、社会も変わっていく中、様々な困難を感じるわたし達の歩みですが、主イエスがその重荷を共に担い、弱さの中でこそ示される招きに応え、愛のある交わりをより広く成していくことができますように。何より、今まさに追い詰められている人々へこそ、教会が門を開き、また歩み寄って手を取り合っていくことが出来ますようにと祈ります。

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